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  • 名前を奪われた。1

    名前を奪われた。1

    出産とともに仕事をやめ、和歌山に越してきた。

    圧倒的に、孤独。

    広がるのは、赤ちゃんと私、二人だけの世界だった。
    仕事から帰ってくる旦那さんだけが、私の唯一の話し相手。

    赤ちゃんとのお出かけは当然「赤ちゃんが行ける場所」に限られる。
    支援センターや公園、小児科。行く先々で私は「ひーちゃんママ」「お母さん」「ママ」と呼ばれる。

    「こちらにお名前をお書きください」と言われ
    自分の名前を書くと
    「あ、息子さんのお名前です」と苦笑い混じりに訂正される。
    そんなやりとりが何度も繰り返された。

    次第に私の名前は「ひーちゃんママ」に上書きされ、「タナカミサキ」と呼ばれることはすっかりなくなった。

    私はもともと、型に収まりつつも、社会に上手く適合しながら自由に生きてきた人間だ。
    絵の個展を開いたり、SNSで気になった女の子に声をかけて写真を撮らせてもらったり、モデルをしたり。色んな「私」を面白がって生きていた。

    だから自分は子どもが生まれても「子ども一直線」の人間にはならないと思っていた。

    けど子育てというのは本当にすごい。

    もちろん、息子はたまらなくかわいい。
    私を「お母さん」にしてくれたことに、心から感謝もしている。

    私からジワジワと個人名を奪い取り、ゆっくりと「何者」なのかを分からなくさせて、母親であることを強制してくる。
    まるで千と千尋の神隠しのようだと思った。静かで怖い洗脳作業みたいだ。

    でも私は自分のアイデンティティが母親“だけ”になることに激しい焦りと恐怖を感じた。

    私はこの静かな侵食に抗いたいと思った。

    (続く)